カテゴリー: つぶやき

概念の変化と今の時期に思うこと

釈迦の時代の人々の概念が 
現在の私達とは大幅にちがっていたという記述をどこかで読んだことがある。

その頃、インドの人々は例えば「AはBである」「BはCである」というのがわかっても、
その後「それならAはCである」という考え方ができないと書いてあった。

また、私達の概念もその時代の人々にはたやすく理解できることができない部分があるとも書かれていた。

そんな重要なことが書かれていたにも関わらず、その言葉に驚いただけで何に書かれていたのか、どんな人物が書いていたのかさえ忘れてしまった。

その言葉に接してから、この時代までの概念の歴史と名打った著書が新聞に載っていて購入して読んだことがあったけど、難しい言葉が列挙されていて肝心の知りたいことにはどうも核心に触れていないような物でがっかりした。


一年の中で一番嫌いなクリスマスも終わった
何故か寂寥感でいっぱいになり、
まるで鎖に繋がれた犬のような状態になってしまう
クリスマス時期というのは私にとっては
「マッチ売りの少女」のイメージがいつもつき纏い
心から楽しめる日を過ごしたことがない

エナジーが落ち、そのままどうにかしようという気持ちさえ出てこない
ただじっとこの時間が通り過ぎるのを待っているだけ

この思いの中へ入っていって見つめる作業
まるで一年分のカルマが見えてくるようなこの時期

「わたしたちは わたしたちが見たい世界を見ている」
わたしはこんな世界を見たいのだろうか
なぜこのように感じることを選んでいるのだろうか
アボリジニは
私たちのカレンダーにあるような祝日はない。
一年を通して、仲間のひとりが特別な才能を発揮したり
精神的に成長したり部族に貢献した時に祝う。

誕生日を祝う習慣はない。
年をとることを祝わず、人が向上したときに祝うのだそうだ

アボリジニにとって人生とは
動くこと、進むこと、変化することだという

彼らにとって生きていない時間とは、
怒り、失望、自己憐憫、恐怖を感じている時
ネガティブな感情を知るために試すのはいいが、
それは幸せや悲しみ、感謝や嫉妬がどんな感情か知る為。
その経験を生かしてどの感情がつらいか、
どれが楽しいか学ぶのだという

クリスマス時期に感じるこの寂寥感は
怒りとも失望とも自己憐憫とも恐怖とも違う種類のものだ

なんだか中途半端な状態
聖霊(という言葉にしておこう)も
そんな私の状態をじっとただ黙って見ているだけだ
わたしはただただこの生ぬるい感情に浸っているだけだ

どうしたい?と考えることもできない
どうにかしようとも思わない
ただこのひとときを味わうしかない
だからそれを受け入れているだけ

別にキリスト教徒でもないのに
街はクリスマスムードでいっぱいになる
形ばかりのできごとに便乗して
それを楽しくすごすように工夫している人も
たくさんいるのだろうけど
いつもぽっかりとした空洞を感じる

友人たちが集まって
ワイワイした時もその気持ちは変わらない
何をしてるんだろう といつも感じる
まるで決められた学校行事に
嫌々参加させられているみたいな

こんな日に共感できた人との出会いが
なんだかお互いに励ましあったような気になる
みんなが沸き立っているこんな日に
「わたしはこの日が実は一番嫌いなんです」と
恐る恐る言ってみたらそれを彼女の言葉で
しっかりとまるで私の気持ちを代弁するかのように
フォローしてくれた。彼女は黙々と小説を書いている。

ひとりとひとりとの出会い。
心の奥にあるものを勇気をだして出してみたら
共感と共に生ぬるかった感情が
行くべきところへと流れていったような感触になった

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